| 『犯人を裁いて下さい』(絶版) 星雲社 |
| 『明日をつくる経営自己革新』 褐苒モフ水書房 |
| 『天意の孤独(野口八重俳句集)』 菁柿堂 |
| 『存亡――ある名門企業・日本特殊鋼60年の光と影』 鰍ノじゅういち出版 |
| 論文「会社が倒産するとき」 |
| 論文「上場までの軌跡」 |
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書籍名:『犯人を裁いて下さい』(絶版)
本文の紹介
目次により全容の紹介
本書についての解説
著者は、この犯罪で死亡した高校生の親族で、幼少のころからかわいがっていたという間柄にあった。著者は国家の取扱が余りにもひどいので、被害者の会で活動したのが、本書を発刊するに至った経緯である。犯人は精神鑑定の結果、精神病とされ、その結果不起訴処分となり、国家権力によって、被害者に何一つ情報提供のないまま、闇に葬られる。つまり、犯罪は存在しなかったというのである。そこには被害者被害と死だけがあった。 被害者には余りにも無常で残酷な仕打ちだった。 この現実に被害者の会は立ち上がり、官憲がなさなかった犯行の真実と犯人の実像を綿密に調査する。その膨大な調査資料によって解明された事実をもとに本書は作成されている。この調査資料は、警察の調査(警察は精神鑑定による不起訴で充分な調査はしてない) ばかりでなく、これを基にした精神鑑定の資料よりはるかにに信頼性に富むものであった。 したがって、本書は確信をもって、秘密主義によって守られている精神鑑定の不合理性(その権威主義と鑑定の根拠の曖昧さ)を事実をもって指摘するとともに、不起訴処分という閉鎖性がおこす社会的矛盾と病根を激しく弾劾する。 そもそも、重大犯罪における起訴便宜主義による不起訴処分という制度は、先進国ではむしろ例外的といってもよく、日本の制度的後進性の象徴といえる。 「被害者の権利」という言葉は、おそらく本書が初めてではなかろうか。 本書は発刊当時、社会に大きな衝撃を与え、広くマスコミにも取り上げられたが、やがて事件とともに風化してしまった。 今日でも、同じような事件が後を断たない。その度に加害者の人権は厚く守られ、「被害者の権利」は虫ケラのように切捨てられる。殺される苦痛と悔しさ、そして家族の無念さにたいして、今日の社会はまったく無力であり、改善しようともしない。 当時でも、一部のマスコミ(特定の新聞社系だが)被害者の家族に「被害者は生き返らない」とうそぶき、「あなた達の活動は無意味だ」と、言っていた。加害者は人権を持っているから、当然大事にするというのであった。 これでは社会は進歩しない。このような犯罪を繰り返さないためには、社会が学ばなければならない。そのためには、犯罪がなかったことにして、国家権力で覆い隠すのではなく、犯罪の事実を公の場で明らかにしてほしい。 つまり、裁判を通して明らかにすべきだ、というのが本書の主張であって、犯人を極刑にしなければ、納まらないといっているのではない。「犯人を裁いて下さい」と血を吐く思いで訴えているのはそういうことである。 しかし、社会は、結局これを取り上げないで、同じ悲劇がくりかえされているのは、マスコミも含めて、あらゆる社会的力が、進歩に反対か及び腰であるからである。
書籍名:『明日をつくる経営自己革新』
本文の紹介
1.本書の目的これは、経営革新のための経営に関する書であります。 今日の、企業は、その歴史上、かって例を見ないほど、深刻な状況にあります。日本経済は、右肩上りの高度成長期から、低成長期あるいはマイナス成長期に突入しております。もう、かっての好景気及び高成長トレンドは期待できませんし、今の状態はこれからも続いて行くものと覚悟せねばなりません。 しかも、このような厳しい経済環境こそが、これからの経済社会の本当の姿であるならば、ここで熾烈な企業競争が展開されるのは必然の成行きでしょう。 こうした状況のもとで、企業が生き延び且つ成長して行くためには、今までとは違った角度から企業を見直さねばならなくなっております。 当然、どのように企業を見直し、体質を強化して行くかが、新しい経営課題になります。これは、企業存立にとって、極めて重大な課題となります。 本書は、こうした改革・革新を図る企業及びその関係者にとって、その指針及び手引きとなるものとして企画されたものであります。 2.本書のテーマ 本書は、総合的な経営革新の書として構成されており、「システムとしての企業革新」として、対症療法ではなく、東洋医学的に、企業の根元的な体力回復を目指しております。 今日の厳しい環境のもとでの経営活動において、第一に求められるのは、生き延びるための効率化・合理化・スリム化であります。それは一般にはリストラという名で実施されておりますが、本書では、「組織の効率化と活性化」として位置付け、 経営革新の重要な柱としております。これは単なるリストラを目的として行なうのではなく、効率化による余剰人材の活用をも目的としております。 第二に、企業がどのように生き延びて行くかの経営戦略が不可欠な条件です。この経営戦略こそが企業存立のための経営課題であります。この経営課題を徹底的に掘り下げ、これを明らかにすることは、何よりも重要なことであります。企業がもつ、本来の実力と内的問題点と合わせて企業をとりまく環境を徹底的に分析を行ないます。 本書の特徴は、効率化によって創出された余剰の人材を新しい経営課題に振り向けることにあります。 これらのテーマの解明に役立てるために、経営が抱えるであろう一般的な課題を、広範囲にわたって取り上げ、経営問題として追及しております。 もともと、本書は、経営コンサルタントが有する「経営改革プログラム」をベースにして作成されたものであります。そのため、ここには当然、企業改革のためのノウハウと広い経験を内包しているものであります。こうした経緯から、本書は、経営についての参考書としても充分に役立つものとなっております。 本書は、平易な記述に心掛けており、また、随所に興味のあるカコミや引用を多用し、経営の読本としても、意義あるものとなるよう、配慮してあります。経営幹部、経営スタッフの方々にとって、有益な書物となることを主眼にしております。 3.本書の構成 「経営自己革新」プログラムに従って構成されており、自社独自において展開できるように配慮されております。
「経営自己革新」プログラム
書籍名:『天意の孤独(野口八重俳句集)』
本書のお問い合わせまたは注文は、(有)ノグチミキヨ まで mikiyo-n@dp.u-netsurf.ne.jp
発刊に際して
本俳句集は、野口八重(旧姓高木、本名ヤエノ。明治三十五年十月十五日―昭和五十六年十月三十日)の俳句詩に選句掲載されたものの収集であります。母・八重が俳句に手を染めたのは人生の晩年、昭和四十年・満六十三歳からでした。そして七十九歳でこの世を去るまでの十六年間に五誌に一三一三句を残しました。 五誌は次の通りです(現在)。 1.「塔」 主宰:加賀美鏡水(当時 小笠原龍人:平成十二年一月逝去八十八歳) 神奈川県相模原市宮下本町二−二六−二三 2.「獺祭(だっさい)」 主宰:西岡正保(当時 細井芒角星:昭和五十四年二月逝去八十一歳) 川崎市幸区下平間六十八−一−三−二一一 3.「草」 主宰:今井誠人(当時 上林白草居:昭和四十六年一月逝去八十九歳 白草会) 松市松島県営住宅十−十六川西方 4.「草ぐき」 主宰:磯 直道(当時 宇田零雨 社) 川口市飯塚四−四−七 5.「年の花」 俳人協会 新宿区百人町三−二十八−十 母は各誌には異なる俳号で名乗っており、「塔」には八重、稀に也恵または也恵子、「獺祭」には也恵または三恵、「草」には千典、「草ぐき」には八重子、「年の花」には也恵として掲載されております。 本俳句集では最も句数が多く、関係の深かった「塔」における俳号「八重」で統一いたしました。 母は、二人の師匠についておりました。その一人は、「塔」の広尾支部の今井潔人氏(野口家の菩提寺住職――故人)、もう一人は、貝塚句会の羽村野石氏(母の住所の近く―-故人)でした。後者での俳句は「獺祭」及び「年の花」に掲載されており、そうしたつながりが想像されます。 母の俳句集を発刊しようというのは、はるか以前からの約束でした。母が昭和五十六年にこの世を去ったとき、膨大な俳句の雑誌等が残されておりました。それは俳句に対する母の思いの遺産であります。 そうした母の思いを、俳句集を出版することで、母の生きた証として子孫に伝えようと、父と約束したのでした。 それから、父はそのための作業を開始しました。それは膨大な俳句の同人雑誌から母の俳句を拾い出し、これを書き写す作業でした。そのかたわら、「塔」の選者であり、広尾地区の師匠でもあった今井潔人氏から巻頭言を書いて頂くことまでやりました。 しかし、俳句集の出版は、全く進みませんでした。それでも父から一言も催促がましいことはありませんでしたし、気になりながらも、私は仕事のこと、遠距離にあることで自分自身に言い訳をしながら、年月が経過してしまいました。 そして、父は俳句集の出版を見ることもなく、書き写した書類の束を残したまま、この世を去ってしまいました。平成十一年一月のことです(このころ、野口家は不幸が続き、その一年前の平成九年十二月には大黒柱の長兄を失ったばかりでした)。 父の一周忌が過ぎた頃、父の書き写した俳句が私の手許に入り、続いて母の俳句ノートも入手しました。 しかし、余りにも長いこと放置されておりましたため、残念ながら、掲載された同人雑誌は既に処分されており、何一つ残っていませんでした。あるのは父が一句づつ丁寧に書き写した八十七枚の書類と清書するために使ったノートのみでした。これらは父の私に対する約束の証しでもありました。 私は、それから、残されたものを手掛りに、俳句同人雑誌の団体等を調査し始めるとともに、母の俳句とその選者評などを少しづつ読み始めました。でも俳句の経験のない私には、俳句の編集は至難の技であることを認識せざるを得ませんでした。まず、残された資料の疑問点を明らかにする必要がありました。 を辿って掲載句誌の原本を捜し求めて補充修正しましたが、資料の喪失および私の調査の限界から、残念ながらこれ以上の整備は出来ませんでした。なによりも、この世界に馴染みがないことの制約を痛感させられた次第です。 私は、編集にあたって、母の俳句の原点を知りたいと思いました。それは息子として、また編集者としての責務だと思ったからです。 さんざん模索した挙句、比較的初期のもので、選者の評のあるものを手掛りにしようとしました。そこで、私がキーワードとしたのは次の句でした。 みの虫や天意の孤独ゆられをり (塔 四十九年十二月) 選者は、この「天意の孤独」という表現を絶賛しております。私のふつつかな知識では、このようなやや抽象的な語句は好かれないと理解していたのですが、それをこえての評価です。 みの虫を見て、これを天から与えられた孤独とみたのは、作者にそれだけの下地がなければ、とうてい不可能なことです。このとき、母は孤独であったわけではありません。父と一諸だったし、兄の家族とも同居に近い生活でした。それにもかかわらず、「天意の孤独」という絶妙な表現がなされたのは何故なのでしょうか。 解が得られないまま、この頃の句をみているうちに、次の句が目に入りました。 かしぎつつまた立ちなをり木の実独楽 (塔 四十九年一月) 返り花命かそけき紅さして (塔 四十九年二月) 毒きのこ詮なきももの美しさ (塔 四十九年十二月) 第二句の「返り花」とは季節はずれに咲く花のことです。春の花が秋に咲く狂い花のことです。一生懸命に咲いているが、所詮は返り花、もう先は見えているという情景が浮かぶでしょう。 第一句の倒れそうで、それでも倒れずに廻っているコマ。そして、第三句の美しいが、所詮は毒をもっているきのこ。 撰者が評しているように、ここには人生が謳い込まれているとみるべきでしょう。 母は、信念に近い人生観の持ち主でした。その人生観は人生を宿命と捉えていたことにあります。私には生前の言動からそう理解するのです。母は人生及び人の世に対する研ぎ澄まされた洞察や曇りのない精神は、自分自身の人生体験そのものであったといえます。 自分の人生を宿命とみたとき、それは天から与えられた宿命なのです。天から一人ひとりに与えられたものは、「天意の孤独」なのです。 私は、おぼろげながら、俳句のある一面を見たような気がしました。この世の森羅万象を自分の心の鏡に映して、始めて句が生まれるのではないかということです。それは自然や物ばかりでなく、自分の行動までも、さらに自分の心までも映してしまうのでしょう。そうならば、そこには身の毛のよだつような深淵な境地が待っていたのかもしれません。 明治は遠くなりにけり。 その遠い明治の世、三十五年十月十五日。徳島県勝浦郡上勝町の旧い士族の家系、高木家に女子が誕生した。本名ヤエノ。当地で成育、徳島高等女学校を卒業後、上京。大正十五年十二月に、公務員だった野口貞治と結婚。そして激動の昭和の世を迎えて、一女三男の母となります。 戦時体制が色濃かった当時の国民生活は、国家の興隆とは反対に、むしろ貧しいものでした。それはわが家でも例外ではありませんでした。それでも庶民的で平凡な家庭だったと記憶しております。そんななか、大きな苦難が始まりました。 昭和十六年十二月十日、太平洋戦争に突入。戦局の悪化にともない、東京は空襲の危機にさらされるや、家族は離ればなれの生活を余儀なくされました。東京での空襲、極度の食料難のなかで生き延びてきました。 やがて昭和二十年八月十五日、終戦。チリヂリになっていた家族は一緒になったものの、戦後も続くより深刻な食料難。とくに東京では生きるための食料すらおぼつかない生活でした。タケノコ生活という言葉が流行ったのもこの頃で、もてる資産は食料品に換えられていったのです。 そのような生活のなかで親子6人が生きて行くための父と母の苦しみは想像を絶するものがあったでしょう。それでも家族が生きていることは何よりの支えでありました。 しかし、終戦の翌年、昭和二十一年十二月八日、長女が病死します。死ななくてもよかった命、やっと戦後まで生き延びた命だったのです。家族思いのやさしい姉だっただけに、家族の受けた悲しみと無念さは言い表す術もありません。とくに、母は「どうして私が代わりに死ななかったのか」、何度も何度も繰り返しておりました。 それからの母は、変って行ったようにみえました。 一日として欠かすことなく、長女の遺影の前で経をあげておりましたが、それは決して死んだ娘に対する供養のためだけでなく、娘に先立たれた母親としての悔悟の念、そして「どうして自分が代われなかったのか」という嘆きが怨念となって、母の心をかきむしったのでした。私のような凡人は嫌なことははやく忘れたいとの意識が働きます。 しかし、母にとって忘れることほど罪深いことはなかったのです。母は己の問いを問い続けたのでした。 姉に対して、それなりに厳しく養育していた母は、残された男子三人に対しては、全く厳しさがなくなってしまいました。より人間的に、より宗教家的になって行ったような気がします。とはいえ、母は一切宗教的なことは口にしませんでしたし、仏事を家族に強いることもありませんでした。すべては母の内面に秘められていたのです。 こうして、自らの苦悩を問い続けた挙句に得た解は、「宿命」ではなかったでしょうか。どうしようもない運命。明治生まれの女性が、大正、昭和を戦争と激動の世紀に生きて、その中で、人間として、妻として、母親としての役割を背負わされた運命。それを受け入れることによって、再びあの世の娘に語り掛けたことでしょう。 逆縁のさだめ安らに門火焚く (獺祭 五十一年九月) 母は家族と共に歩みました。そして、子供がすべて社会人として巣立った後、俳句の道に入ったのです。 そこで、自分の人生を語ろうとしたのでしょう。この俳句は間違いなく母そのものだったのです。 己が道信ずる如く蟻の列 (獺祭 五十二年八月) 無理をして来た肉体は、やがて衰えて行きます。気力だけは妻であり、母でありました。迫り来る老いと人生の終着に対して、己の人生を何度も回想したことでしょう。 老いしかな返り花とて見とれゐし (塔 五十年二月) 老いて、まだ生きている自分を返り花に重ね合わせたのです。返り花の季語が多いのもその故でしょう。 夕焼の遠く遠くに暮れにけり (獺祭 五十年九月) すばらしい夕焼けの情景です。でもこの句は字句通りのものではありません。自分の思いはまだ遠い、それでも遠くに日は暮れていくのです。この句は、この頃の母の内面が素直に表現された秀句であると、私は勝手に思っているのです。 気持だけで生きて来た母も、病床の人となって、いつまで俳句を作り続けていたかは定かではありません。死ぬ直前の俳句は、残念ながら特定できませんでした。入手出来た資料からすれば、公になった最後の句は にもほどよくかかり初暦 (年の花 五十六年四月) で、これが母の生きた最後の暦でした。 母の訃報を、私は勤務地の名古屋で聞きました。あいにく、外出中で外出先に連絡があり、私はその日のうちに東京の病院にかけつけました。母はまだ病室に安置されておりました。 私を案内してくれた父はこう言いました。「よく見てくれよ。この安らかな顔を!」共に歩んだ苦難の人生、母が心に背負った重荷に対する、父のねぎらいの言葉だったのでしょうか。それとも、父は生きるという重荷から解放された母への供養の言葉だったのでしょうか。それほど母の顔は安らかでした。 前夜、誰もその臨終に気が付かなかったほど、まことに静かな往生だったそうです。 父は、母の晩年には、ことあるごとに「お母さんはエライんだ」と私達息子の前で言っていたのを想い出します。 父は、母のかたくななまでの自己犠牲と家族に対する情愛、そしてそれが決してその通り受け入れられていないことを感じていたのでしょう。それでもすべて運命として甘受していた母の、明治の女性の心の軌跡を読み取っていたのでしょう。 もしそうならば、「エライのはお母さんだ」と言っていた父の方がエラかったのかも知れない――私はそんな思いもするのです。ちなみに、父の死後(平成十一年一月十七日死去 享年九十七歳)、次男の私が最年長となり、普段交際のなかった、父の縁者に挨拶に廻りつつ、父の思い出話を耳にした時のことです。 驚いたことに、父の縁者の間で悪い話は一切なく,自分のできる範囲のことを誠心誠意行なってきたという父のイメージが浮かぶのです。「本当に仏様のような人だった」という話を、私はどんな思いで聞いたことでしょうか。 その父も母の許に旅立ってしましました。 つつがなく老いて二人の年の暮 (獺祭 五十五年二月)
書籍名:『存亡――ある名門企業・日本特殊鋼60年の光と影』
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はじめに
この書は、名門の譽高かった日本特殊鋼という会社の創立から消滅までの60年のドラマを語り、これによって企業の存亡の事実とその理を明らかにするものであります。 この会社の一生は、戦前、特殊鋼の最大手として、また軍需産業として成長し、戦後、日本の基幹産業として期待されながら、経営の行詰りから倒産、更生会社を経て再生、やがて業界再編成の嵐のなかで吸収合併され、消滅するという、実に波瀾に富んだものでした。 企業の創立と成功には、必ずといってよいくらい、一人の天才が登場します。 明治維新以来、日本は、列強に追いつけ追い越せの富国強兵の国策が至上課題でありました。これは軍事力の拡大を熱望する軍部の強い要請であり、国民全般の趨勢でもありました。 こうした時代のニーズに応えるべく、創業者の渡辺三郎は、軍需産業にとって必要不可欠な特殊鋼の製造に乗り出します。それは、まさに時代の先端産業でありました。そして、軍部と強い関係にあった軍事産業を官営から民営への移行に成功します。 こうして、大正4年に創立された日本特殊鋼は、あくまで渡辺一族の企業として、渡辺一族が出資しました。 日本特殊鋼は発祥の地を大森に求めます。企業は、海外先進諸国の製品と技術を見本として、まさに「追いつき、追い越す」べく、技術の開発、製品の開発、設備の拡張に邁進します。当時の主流であった「ルツボ製鋼」から電気炉製鋼へのチャレンジなど、渡辺社長は、終始、攻めの経営の徹します。その結果は、盛上がる軍国主義を背景に、賞賛と拍手をもって迎いれられました。 昭和10年代に入り、戦争の足音が近づくにつれ、高まる軍需に呼応するように、各地に特殊鋼メーカーが乱立ないし拡大していくなか、渡辺三郎社長は、先端企業の座と威信を保つべく、兵器産業に足を踏み入れましたが、ここでも、零戦搭載の20mm機関砲はじめ、当時の陸・海軍の主力機関砲はすべて日本特殊鋼が開発したものが使われるようになるのです。 そして、兵器工場として、相模原、小倉工場を設置、蒲田工場の拡大をはかるとともに、壮大な一貫特殊鋼生産工場を指向して、羽田工場構想を推進していきます。ちなみに、この羽田構想には、今日の特殊鋼生産を予感させる極めて先見性に富むものでした。 やがて、戦争に突入すると、戦時体制を背景に、軍部の強い要請により、工場建設の促進に邁進し、満州にまで生産の地歩を築こうとします。 しかし、これらの拡大路線は、戦局の悪化とともに、危うさを増していきます。資源の枯渇と空爆によって、生産も思うにまかせなくなるや、昭和20年8月15日、終戦を迎えました。 終戦によって、日本特殊鋼はほとんどを失うことになります。企業は、荒廃した社会で、忍耐と苦難を強いられます。それでも、日本特殊鋼は戦時中までの遺産によって、一般の企業より恵まれた状態が続いていました。 昭和25年、朝鮮動乱によって、日本経済は息を吹き返すとともに、日本経済は、これからの国際関係をにらんだ、新しい産業構造を描いていくことになります。こうした産業構造に対して、各企業が自社の構想を描くことになります。 この矢先、昭和26年に創業者の渡辺社長は死去します。日本特殊鋼は、極めて困難な時期に、偉大な創業者を失うのであります。 経営は、戦後の進むべき日本経済に添う形で、展開される必要がありました。つまり、日本の産業の課題は、東西冷戦体制における先進自由主義諸国に「追いつき、追い越す」ことにありました。 こうした動きは、奇しくも渡辺社長が死去したその年、昭和26年にサンフランシスコ条約が締結され、世界の仲間入りするや、表面化してきます。政府は、そのために官民一体となって、産業構造の高度化を推進しようとしました。昭和27年には「産業構造審議会」でモデルが検討され始め、基幹産業である鉄鋼業では、 設備的にも技術的にも、戦前のレベルをはるかに超えるモデルが描かれ、すでにその前年から第一次合理化計画に着手していました。需要産業は自動車、機械等で、これらの産業も世界レベルに「追いつき、追い越す」使命を担っておりました。 最早軍事国家の道のない日本は、先進世界に仲間入りするには、どうしても産業を対等な立場で自由化する必要がありました。それには互角に競争できる強い体質の産業構造しかありません。相当な「痛み」を覚悟の上で、昭和35年には「貿易自由化の基本方針」が打ち出されます。 日本特殊鋼においても、羽田工場接収解除に合わせて、戦後の新体制として、昭和27年に第一次合理化計画が策定され、昭和32年に、大森工場にて完成の竣工式が挙行されます。そして、奇しくも、この年、初代渡辺社長の後を継いだ実兄・大河原栄之助社長は竣工式目前に死去、その子・大河原正太郎が三代目社長に就任します。 特殊鋼業における産業構造の検討は急ピッチで進められ、昭和32年には、早くも通産省「産業構造審議会」に「特殊鋼部会」と「経営技術分科会」が設置され、大河原栄之助社長は後者の会長に就任しています。ここで、特殊鋼業のモデルが検討され、特殊鋼各社は、第二次合理化計画に走り出します。 日本特殊鋼も、当然、新たなモデルに挑戦すべく検討を重ねてきましたが、鉄鋼大手との提携を拒否、独自路線を歩もうとします。しかしながら、ついにモデルに添う計画は経営として決断されませんでした。 狭隘な大森工場から離れられなかった日本特殊鋼は、二次加工部門に力を入れつつ、別途に鉄源対策を講ずる道を模索します。その間にも、体質の弱さと経営のまずさ、設備および関連会社等への分散投資による経営の悪化は、資金苦となって、企業を圧迫していきます。 こうした時、興銀からの話で、日曹製鋼との間で、八戸に「北日本特殊鋼」を設立する決断をします。そして、昭和35年12月、運命の「当社の長期計画について」が発表されるのです。この計画全体は、鉄源対策としては、新会社の砂鉄銑に依存するという前提で構築されていました。 当時、砂鉄銑の技術は未知数でしたが、これの成功に社運を賭けます。ところが、社運を賭けたという決意も感じられぬまま、北日本特殊鋼は失敗しました。 ここに、会社は多大の損失を蒙り、かつ信頼を失いました。責任をとって三代目大河原正太郎社長は辞任し、ついに渡辺・大河原の同族経営は幕を閉じるとともに、今までの垢が一挙に表面化し、存立すら危うきに到ります。 後を継いだ北耕二社長は、会社の存続のために奔走します。その最中、北社長、経理・資金担当の常務は、病に倒れ、経営陣はまさに満身創痍となり、昭和39年12月、万策尽きて倒産。更生会社を申請しました。当時での戦後最大、証券界に名を馳せた名門会社の倒産でした。 日本特殊鋼の倒産を重くみた東京地方裁判所は、異例ともいう早さで、対応しました。 ここで、「再建の神様」として名高い早川種三が登場します。 更生管財人となった早川種三の、神業とも言うべき手腕によって、41年に始る構造不況後の「いざなぎ景気」にも助けられて、昭和45年、日本特殊鋼は再生します。 早川種三は、有名人通りの人物でした。その人間性、その経営および再建手腕、その再建への熱意、どれをみても、日本特殊鋼の関係者にとっては驚嘆に値しました。もともと、早川種三は、既存の経営者の枠に入らない人物であるうえに、他の経営者を知るチャンスのない従業員等にとって、早川種三は救世主と映ったのは当然の成行きでした。 再建後、早川種三は、中興の祖として、従業員から胸像が贈られているのも、その間の事情を物語っています。いずれにせよ、早川種三が日本特殊鋼の歴史に与えた影響は大きかったのです。 再建後、昭和47年に、早川種三は興人の管財人になり、社長の座を間端夫に引継ぎます。 かくして、日本特殊鋼は最終のステージに移っていきます。 再建したとはいえ、特殊鋼専業メーカーとしての体質の弱さは如何ともし難く、また特殊鋼業界全体の立ち遅れもあって、早くから業界再編成は当然のこととして、叫ばれ、日本特殊鋼はその最渦中にありました。 そして、折しも襲い来る不況の嵐のなかで、苦渋の選択を決意し、51年9月合併により、日本特殊鋼は法的に消滅しました。同時に日本特殊鋼発祥の地であり、戦後に再び結集した最後の砦である大森工場は売却されることになり、工場は移転・整理され、更地となって、昭和54年9月にすべてが終了したのであります。 日本特殊鋼の歴史は、戦前戦時中の興隆時および戦後の一時期を除けば、苦難の連続であったといえるでしょう。とくに、倒産前の昭和30年過ぎからの苦難は、従業員はじめ関係者に暗いカゲを投げかけ続けました。そうした中で、人々は希望のない将来にもがき苦しみつつ、日本特殊鋼の歴史に無数の足跡を残したのです。この間に、将来に希望を見出せずに去って行った人々、それを見送った人々の無念さも。 更生終結が、従業員に与えた希望と明るさは、その反動もあって、大きなものでした。しかし、その明るい未来は、結局、独立企業として成リ立たないという現実を、そして、そのことに何ら経営的に対応できなかったという現実を、再度突きつけられました。このときに、希望退職の応じたのは、実に992名に達しました。 歴史は時としてその残酷な姿を現わします。 日本特殊鋼が倒産したのは、自由化の嵐を乗り切るための「構造不況」期でありました。そうした時、「再建の神様」早川種三が登場します。彼の手腕はマスコミの寵児となり、一般誌にもひんぱんに登場するようになりました。 今日の経済環境もバブル崩壊と金融ビッグバンによる「構造不況」は出口が見えない有様です。今日の「再建の神様」は、さしずめ日産のカルロス・ゴーン氏でしょうか。マスコミの取り上げ方もかっての早川種三のイメージとだぶります。 とはいえ、両者の再建の仕方には違いがあるのは当然でしょう。それでも歴史は必ずその結果を白日のもとにさらすのです。歴史にはそうした怖さがあります。 歴史というものが、その社会的背景のもとでの、栄枯盛衰のとその中での人間の営みを語るものであるならば、日本特殊鋼の歴史は、ぜひ語られねばならないでしょう。それは大正から昭和にかけての激動の歴史、産業史・技術史としても有益であるばかりでなく、ここに登場する6人の社長の経営施策とその結末については極めて示唆に富んだ経営書としての意味を持つでありましょう。 注1.文中および本文中の登場者はすべて歴史上の人物として敬称は省略しました。 注2.本文中では、日本特殊鋼を「日特」と呼称しており、引用文では「日特鋼」となっている個所もあります。 注3.本書は、日本特殊鋼の資料や記録をベースに構成されておりますが、いわゆる「社史」ではありません。
論文「会社が倒産するとき」
これは、雑誌VICに掲載されたものである。 日本特殊鋼の倒産という実体験にもとづき、その倒産時の生々しいできごとを記し、あわせて、倒産の原因を解明しでいる。 この論文により、その後、「会社倒産」に関する、多くの講演のベースとなっている記念すべきものである。 また、この論文は、その後の著書『存亡――ある名門企業・日本特殊鋼60年の光と影』先駆ともなっている。
論文「上場までの軌跡」
これは、著者がフジオーゼックス且梠繧ノ、上場の責任者として、東証第二部に上場を果したときの、体験と上場における問題点と課題とを解説したものである。その生々しい記録は迫力があり、その後、講演会でのテーマになっている。 |
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